机上日記

このブログはすべて机上の妄想による産物である。ゆめゆめ信じてはいけない。

ゴリラ・・・!

数少ないゴリラの諸君、ゴリラをご存知だろうか?

そう、あのゴリラだ。

ゴリラって凄いゴリラって感じで、ゴリラ以外のワードが思いつかない。

そんなゴリラだが、俺もゴリラなのだ。

大学生の頃は日々筋トレに勤しんでいたし、派遣土方マンとして日々肉体労働を行ってお賃金を得ていた俺は、筋肉モリモリマッチョマン予備軍だった。

俗に言う チビ なのに肩幅とか腕周りの太さはそこそこあって、服のサイズは悩んだものだった。

俺の体が筋肉モリモリマッチョマンの予備軍であった頃、友人が俺のことを「ゴリラ」と呼んでいた。今でも呼ばれているが。

現在は部屋が汚いのでここ8ヶ月ほど筋トレを全くしていない。いや、できないのだ。

したい気持ちはあるが、部屋が汚いのでできない。これはもうしょうがいない。

徐々にマシュマロボディへと近づいてゆく自身の体をぷにぷに弄びながら、汚い部屋で無為に過ごしている。

ぷにぷにの我が身は心地が良いのだが、やはりゴリラ時代を思い出すと、あのゴリラ感も忘れがたく思う。

今は「さやえんどう さっぱり塩味 10%増量」を食べながらこのエントリを書いている。

いつの日か、真のゴリラとなれるように頑張ろう。

さやえんどうってめちゃくちゃうまい。

生きる力

24歳独身実家暮らしの男

部屋が汚い。

汚いとわかっていながらも片付けることができない。

平積みされた漫画や小説や技術書、無造作に散らばっている服、Amazonの空箱、空のペットボトルと飲みかけのペットボトル、煙草の空き箱、空のビニール袋…

なぜこんなにも部屋に物が溢れているのか。

必要なものは恐ろしいほど少ないのに不必要なものばかりが部屋を占領している。

筋トレをしようにも筋トレをする場所がない。

居場所はベッドの上か、机の前のチェアだけ。

自分の部屋なのに自分で管理できないとは何事か。

そもそも自分を管理できない人間が自分の身の回りを管理できるわけがない。

つまり自分を律することができるようになれば、部屋が片付くはずだ。

部屋の片付けは未来の自律した自分に任せよう。

机上日記のはじまり

はじめに

ブログを始めようとここ数日迷っていたわけだが、暇なので始めてみた。

ブログタイトルから漂う「こじらせてる感」は無視していただきたい。

さて、記念すべき最初の記事になるわけであるが、平日ということもあって特に書くことはない。 ここで終わるのも最初の記事にしては物寂しいので、私の自己紹介をしよう。

生い立ち

1994年11月27日、埼玉県有数の都市である川越市にて生を受ける。

幼少期

小さい頃は丸坊主で、ほっぺのぷくぷくした子供だった。マルコメ君と呼ばれて可愛がられていたのを覚えている。 人見知りをせず、誰にでもついていってしまい、よく迷子になっていたようだ。

幼稚園

地元の幼稚園に通い、先生に初恋をする。私はあまり覚えていないのだが、女の子のスカートをめくっていた問題児であったらしい。その頃から頭の中は桃色空間に侵されていたのだと思うと、今も大して成長していないように思う。実行するかしないかの違いである。

小学生

地元の公立小学校に通う。
小学4年生の頃、担任の先生に
「お前は人間のクズだ。」
と言われ、人間失格のお墨付きを承る。
小学5年生終盤で地元の野球クラブに入る。数多くの大会で優勝し、西武ドームでも試合をしたことがある。
なお、すべからくベンチからの応援であった。

中学生

地元の公立中学校に通う。小学校時代に野球をしていたので、野球部に入部する。この頃はまだ楽しかった。 中学3年生の夏頃から受験のことを考え始め、地元の塾に通い始める。be動詞と動詞の違いもわからなかったところから、塾の楽しさのおかげか成績が向上し、第一志望であった中学校に隣接している公立高校に合格し、進学を決める。

高校生

中学校に隣接している高校に通う。ここからが地獄の始まりだった。何が地獄だったかって、自分自身の立ち居振る舞いが地獄だった。いや、これは私だけが悪かったわけではない。最初の席位置が悪かった。一番左端の一番前、右にはキラキラ女子に後ろにはイケイケのサッカー部、私が馴染めるわけもなく、一人ぼっちで昼飯を食べる学校生活が1,2ヶ月くらい続く。違うクラスから様子を見に来た中学時代の友達に爆笑され、苦笑いをしながらも一人でもくもくと食べていた。なんかもうめんどくさくなってきたので、なんやかんやあってなんとか途中からは馴染めた。
強さ に憧れ、空手部に入部する。1年で退部させられる。退部させられたが、ここで出会った部活仲間はいい奴らだった。
3年生になり、なぜか俺のことを好いてくれる女子が現れた。人生初の出来事に金魚のように口をぱくぱくさせながらも、なんとか私の方から告白をし、見事交際をすることになった。頭の中は桃色空間に侵された。
とはいっても、高校3年生、受験の時期である。
交際と受験でこれまた口をぱくぱくさせながらも、都の西北早稲田大学文化構想学部に合格し、進学を決める。

大学生

早稲田大学文化構想学部、略称は「文構」で俗に「あそぶんこう」とも称される学部である。ちなみに学科名も文化構想学部だ。学部名学科名からは全くと言っていいほど何を学べるのかわからない学部であったが、早稲田という名前に惹かれた。晴れて早大生となった私は、大学生活を謳歌すべく、新歓にバイトに飲み会にと忙しくも楽しい毎日を送っていた。
しかし、気づいたときにはサークルには入っていなかった。
これが決定的だった。高田馬場のロータリーで夜な夜なわいわい騒ぐような輝かしき大学生活は失われてしまった。

バイト先で出会った通称・パチンカス先輩にパチンコを教わり、パチンコとバイトに明け暮れる日々を送るようになる。
GPAは陽の目を浴びず、低空飛行か墜落寸前であった。
高校3年生から交際していた彼女とは、大学2年生の頃に振られた。当時の私は(今もだが)、振られても当然の人間であった。
大学生活は暗黒時代と化してしまった。

文構では、ゼミに所属しゼミ論文を書き上げるか、教授などに指導を受けながら卒業研究として卒論を書き上げる2つの道がある。このまま一人では卒業できないと感じた私は、ゼミに所属することを選択した。これは大正解であった。先輩も同期も後輩も楽しい人達であった。ゼミの先輩や同期とは今でもたまに会ってお酒を飲み交わしたりする。つい先日も同期が結婚したのでお祝いをしてきた。大学生らしい生活を送ったのはゼミだけかもしれない。

大学生活も後半になると就職のことを考え始める。考えはするものの、バイトにパチンコにと忙しいので、ろくに準備もしていなかった。就職活動解禁の時期になり、大学開催の説明会などに参加しつつなんとかなるであろうと思っていた。これは間違いであった。なんとかならなかったのである。確かに寝坊やバックレやキャンセルなどがかなり多く、まともに選考できたのは数社しかなかったが、その数社はすべて全滅であった。

あがくことを潔しとしなかったサムライ精神を持った私は、早々に就職活動を辞めた。周りが続々と内定を決めていく中で、私は相も変わらずバイトにパチンコにと大忙しであった。ゼミ論文も暗礁に乗り上げ、就職の道も閉ざした私はそれでも落ち込むことはなかった。
そう、パチンコである。パチンコは私の心を癒やした。ただ銀の玉を目で追い、失明させるためかと思うほどの光と鼓膜を破るためかと思うほどの音を浴びている間は、無心になれた。のらりくらりと流されるがままに生きてきた私にとって、就職活動を辞めたことはある意味なるべくしてなったとも言えるかもしれない。

大学4年生も終盤になり、なんとかゼミ論文を書ききり単位もぴったり取得し卒業はできてしまうことが確定した。
残すは就職のみである。
だが私は動かなかった、大学4年生の3月まで。

あとは卒業するだけという段階になった大学4年生の3月、私は就職活動を再開した。
「警察官になるために勉強をする期間にしたい。」と親を説得し、フリーター生活を送ることをなんとか許可された身分であった私が、卒業を控えた3月に急にリクルートスーツを着て就職活動を再開した。
2社選考を受け、両者とも内定を頂いた。こんな時期に求人をしているところだからきっと誰でも取ったのだろう。現に今年いっぱいで退職する私の同期は私と同時期に就職活動を行い、内定していた。
ギリギリに就職を決め、卒業をキメた私は、晴れて社会人になることになった。

社会人

そして今に至るわけである。
現在も大学4年生の3月に内定を貰った会社でSEとして働いている。
すでに社会人2年目ということで、私自身も驚いている。
大学の同期は私のことをしきりに働いていないことにしたいようであるが、残念ながら正社員として働いているのが現実である。

おわりに

私の薄い人生も語ろうと思えばこんなにも語れるものだ、と驚いている。
ここまで読んでいただいて申し訳ないが、得るものは何もなかったと思う。
私も、誰が読むわけでもないこの長文を書いていたせいで貴重な3連休前夜を無駄にしてしまった。
このように、誰にも有益ではない文章を気が向くままに綴っていきたいと思う。

それでは、何卒。